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リアリティを伴う想像力を持てる人

やしほ映画社には、映画上映会を主催して下さった方々から、毎回報告書と共にアンケートや写真が届く。わたしも、時間がかかってしまっているが、必ず読ませていただいている。
今日は、大阪市内の高校の生徒さんたちの感想文に目を通した。その人なりに様々なことを受け取ってくれていることが伺えてとても嬉しかったのだが、最後に担当の先生が生徒たちに呼びかけている文章に目がとまった。先生自身が葛藤し、自問自答を繰り返し、考え続けながら発しているひとことひとことが、わたしの心にもまっすぐ届き、そして問いかけてきた。少し長くなるが、ここに紹介させていただく。

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今この瞬間にも差別に苦しむ人が、この日本に、この大阪に、もしかしたら君たちの身近にいたとしても、その人がその苦しみから解放されるにはどうすればよいのだろうか?差別されない側の人が口々に差別の理不尽について言及するだけで、差別される側の人の痛みは和らぐだろうか?もちろん、差別を公然と肯定することに比べれば、それよりはよいに決まっている。けれど理不尽な差別を受ける人にとって、さしあたって差別されない立場の人がその理不尽さに言及するだけでは、溝は埋まりきらないのではないか。かといって、どうすればよいのか?重たく厳しい問いかけだ。
その答えとして適切かどうか、私個人の心がけで恐縮だが、「自分の中からあらゆる偏見を排除すべく努力を怠らないこと。そして、それを強く決意して生きていくこと」しかないと思う。最もひどい差別を受けている人が、もしかしたら自分の親友であったら、恋人であったら、自分はどう考え、どう行動するか?そういうところからリアリティを伴う想像力を持てる人こそが、社会の偏見と立ち向かえるのではないか。また、こういう偏見に立ち向かう気概がなければ、たちまち偏見を助長する側に組み込まれてしまうことも自覚しなければならない。
社会にはびこる偏見は、実に多岐にわたる。被差別部落の問題ももちろんだが、在日韓国・朝鮮人差別、人種差別、障がい者差別など、社会の根幹から正さなければ容易に解決しないような問題が山積している。けれど、もっと小さい集団の中でも、偏見の芽がいたるところに顔をのぞかせている。いじめやセクハラ、パワハラなども根っこはいわれなき偏見を集団が許容するところから始まる。
本当に一人ひとりが偏見を許さない決意で毎日を過ごしていれば、自分も含めて、周囲の誰かがいわれない偏った目で発言したり、行動したりしたとき、迷わず疑義をはさむことができるはずだ。「そうかなあ?○○の場合だってあるんじゃないかな。決めつけはよくないよ。」こう発言しながら、人の集団はかろうじて人としてバランスを保ってゆけるのだと、つくづく思う。
もし、あなたが所属する集団にこういう発言の余地がないのだとしたら、たとえ統率が取れた効率的な集団だとしても、決して居心地のいい集団とは言えないだろう。一人ひとりの人権感覚が研ぎすまされてこそ、本当に人間らしい暮らしが送れるのだということを、みんなの感想を読みながら考えた。

(大阪市内公立高校 教諭)