いのちはいのち。手に負えないもの。
津久井やまゆり園での事件について、7月30日の東京新聞の特集で取り上げられていた和光大学の最首悟名誉教授の言葉が深く心に刻まれた。
最首教授ご自身も、複合障害を持つ娘さんがいる。彼女は言葉を話せず、幼い時に視力も失い、食事も排せつも自分の力ではできない。「植木鉢の花と同じで二日も世話をしないと死んでしまう。夫婦で旅行もできない」という中で、教授の下記の言葉が続いている。
(以下は東京新聞 7/30こちら特報部からの抜粋)
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「(この子より)先に死ねない気持ちは私も同じ。自分もこの子が死んだら、どんなに楽になるかと思うことがある。だが、命について、こんなに考えを深めてこられたのはこの子のおかげだと感謝している自分もいる。その両方は離せない」
「ただ、この子がいなければと思っても、殺すという一線は越えられない。それは『命は地球より重い』からではない。命には他の命を食べる残酷さもある。結 局、命は分からないし、手に負えないもの。『いのちはいのち』でしかない。そんな事実がうめき続ける自分をとどめている」
「この子が二十歳になるまで、私も妻も別の機会に一回ずつ『この子がいなければ』と言ったことがあった。一回ずつだけ」
そうした歩みを植松容疑者のような第三者や国家が「代行」し、決着を付けることだけは絶対に許せないという。「(そうなれば)八つ裂きにしたい」
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いのちはいのち。手に負えないもの。毎日、いのちと向き合い、答えのでない問いを繰り返し、葛藤しながら生きている。それをいかなる理由があろうとも、第三者が勝手に手を下すことは絶対にゆるされない。
氏の言葉を読んでいて、事件が起きてから糸が切れた凧のようになってしまっていたわたしの心も、地面に着地したような気がした。