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あなたは今、この星のどこにいますか?

梨木香歩さん、師岡カリーマ・エルサムニーさんの往復書簡をまとめた「私たちの星で」を読み終えた。

キリスト教精神に基づきながら、式典では君が代を斉唱するという学校で学んでいた私にとって、10代の頃から信仰とナショナリズムは、自分の中で抱えてきた大きなテーマだった。そして、朝の礼拝から1日が始まった8年間の生活は、信仰とは、神とは何かを自問自答する日々だった。高校生の頃に読んだ遠藤周作の「沈黙」をきっかけに、信仰によって立つ者がいのちをどう捉えるか、ということもまた、自分の中に未だ持ち越している大きな問いである。

学生の頃は、それがすべてといってもいいほど、切実だった問いも、社会に出て様々な出会いや経験を重ねるうちに、自分の宗教観や信仰については、よっぽどのことがない限り口にすることもなくなり、自分の奥深いところにしまい込んできた。
その埋没していた問いに、深い水脈から、或いは国境など軽く飛び越えてしまうような鳥のような視点から紡ぎ出される梨木さん、カリーマさんの言葉は深く染み込み、様々な記憶が、当時の感情と共に蘇ってきた。

珠玉の言葉が散りばめられている中で、カリーマさんが最後にこう締めくくっている。

〜 肉体の限界や、社会のルールや、おのおのの経済力や、国境などの制約に縛られる私たちが、「鳥より自由」という運命を全うするためには、どう生きるべきなのか。私は、アイデンティティを世襲制ではなく独創性ととらえることにこそヒントがあると思う。日本人が日本に背を向けるということではない。「日本人」が「私」を定義するかわりに、個々の「私」が「日本人」を定義し、それを次から次へと塗り替えていくのだ。「私は誰か」という問いの答えは、出自にかかわらず自由であると自覚すれば、誰もが自分の本当の居場所を見つけることができるはずだと私は思う。たとえ今いる場所から動くことができなくても、答えは必ずどこかで待っている。私たちの星のどこかで。それを見つけるために私たちは本を読み、ファンタジーを愛し、旅をする。~

私は私である、という個人としての佇まいを、私は自分に問うていきたい。