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心臓から溢れ出てくる涙

その後、ジェットコースターに乗っているような日々が続いた。日に日に悪化する父の体調からいっときも目が離せなくなり、昼夜問わず、訪問医の先生や看護師さんにSOSを出すことが増えていった。
本人が痛みや苦しさを訴えるたびに、必死で対応すると、まるで何事もなかったかのように落ち着いたりする。あれ、そこまではまだ必要なかったのか?自分の取り越し苦労だったか?本人のために良かれと思ってしたけれど、自分の不安解消のためだったのか?と自分の判断を疑い、責める。すると翌日には、さらに悪くなる。ああ、やっぱり前兆だったのか、とその繰り返し。いのちに関わることだから間違いたくない、という気持ちが強く働き、何かある度に、その振れ幅も大きい。
そういう日々を繰り返す中で、普段のように自分の内側の柔らかい部分を開け放していたら、感情が揺れ動きすぎて、あっという間に限界がきてしまった。姉兄に泣きついた。
本人の苦しみや痛みの渦に絡め取られないために、自分の心の扉はほんの少しだけ開けることにして、目の前にあることを淡々としていこう、と切り替えた。
それでも、スーパーで買い物している時や、毎日のように通っている薬局で順番を待っている時など、気がつくと涙が流れている。心臓がずっと痛くて、涙はその心臓から溢れ出てくるようだった。弱っている父の心臓と同調しているのだろうか。涙を拭いながら、母もひとりになったときに、こんなふうに涙を流しているのだろうか、とふと思った。
父の体調に波があるように、私にも波がある。ずっと献身的ではいられない。明け方は、疲れて訴えを無視することもあるし、このクソ親父が!と心の中で毒を吐いて、奮い立たせる時もある。痛みが増すにつれ、意識も朦朧として言葉遣いが荒くなったり、手足をばたつかせる父に、たまらず「うるさーい、黙れ!」と叱りつけたりもする。あとで母と思い返して笑い合えるのが救いだ。身内だから多少のことは許されるが、医療従事者の方々はそうはいかないだろう。そのご苦労を思う。介護中のそういう自分の小さな悪意が、チクっ、チクっと記憶されていく。
医療関係の人とのやりとりや事務手続き、薬の管理などを母から引き継いでから、一番難しいと思うことは、例えば仕事では、二歩、三歩先のことを予測して、予めできることを進めたり、準備したりするのだが、介護においては、本人も母もそれは受け入れがたいことだということ。そうなったときに考えればいい、と母からは諌められた。気持ちはよくわかる。そうしようかとも思った。でもそれだと、結局本人が苦しむことになる。だから一歩先の準備をして、両親には半歩先のことをタイミングを見計らって提案するように心がけた。といっても、私も医療のことや病気のことがよくわかっているわけでもないので、日々取っているデータを先生や看護師さんに見てもらって、質問しまくる。相談する。それでも、わからないことだらけで悩む、迷う。
衰弱と痛みが激しくなり、意識も朦朧としている時間が大半を占めるようになり、次の段階に入っていく気配を感じて、家族みんなに声をかけて集まってもらった。すると起き上がることもできなかった父は、3時間もしゃんと腰掛けて、しっかりとした言葉で話し、最後にはみんなへの感謝の思いを語った。すっかり元気な父の姿にみんなで喜び、まだまだ大丈夫だね、と言い合いながら別れた。父は、私がいないところで母に「まるで危篤のようにみんなを呼びつけて、あやはけしからん!」と言っていたらしい。けしからん、でおおいにけっこう。
その翌日から、父の症状は加速して悪化した。あまりにも苦しみ、その痛みを和らげるための薬も効かず、その凄まじさを目の前にした時、最後まで家で過ごす、ということにこだわるのは、ただのきれいごとにすぎないように思えた。これまで家で過ごせたことは良かった。でも今はそれが最善ではない。この苦しみを少しでも軽減してほしい。母と兄と私、それぞれの中でも、迷いながら、相談しあって、再び入院してもらう決断をした。
今日、2022年4月24日に結婚55年を迎えた両親へ、感謝を込めて。
(写真:5年前の今日、金婚式を迎えて。撮影 石井和彦)
20220424